「旅・写真・ごはん」をテーマに、世界中を旅する「旅行家・写真家・食事家」、石黒アツシさんが発酵食品を語るコラム。今回は、富山から山を越えて内陸の町々に運ばれ、正月のおめでたい食卓を彩るようになった「鰤」(ぶり)のお話です。その食文化の広がりには、塩蔵や麹漬けといった発酵技術が大切な役割を果たしてきたのです。
夏の飛騨高山から、日本海の富山へ
夏の飛騨高山と富山を旅しました。ちょうどお盆の時期で、太陽の軌道は少し低くなって、朝晩には涼しい風が抜けるような頃です。
さて、この地域のお正月に欠かせない「鰤」(ぶり)。富山湾に面した港に水揚げされるぶりの旬は冬です。脂がのった体長は60㎝を超えます。江戸時代の後期になるとぶりには塩が振られて、内陸の町々に運ばれるようになったそうです。山に囲まれた地域で、「正月にはぶりをいただく」という食文化は、人足たちが富山湾から内陸の高山へ、そして更に峠を越えて信州の松本までぶりを担いで届けてくれたおかげで生まれたんですね。
幕府直轄の「天領」だった高山
高山は第2次世界大戦の爆撃を免れ、いまでも古い町並みが残る風情のある街です。江戸時代には交通・商業の要衝である高山は幕府の直轄地である「天領」として治められていたそうで、その番所である「高山陣屋」が街の中心に今でも残っています。
古い建物の軒先に「杉玉」を飾る造り酒屋も何軒かあり、そして醸造のための麹を扱う店もあって、日本ならではの米麹を使った日本酒がおいしい街でもあります。
街の北から南には宮川という清流が水音を響かせます。高山には毎日開かれる朝市がふたつあります。ひとつは陣屋の前の広場に、もうひとつは宮川沿いの小道に店が並ぶ宮川朝市です。新鮮な野菜や果物などが並ぶ地域の生活に根付いた朝市では、この土地の名産品なども売られていて、観光客がにぎやかな高山の名所のひとつでもあります。
富山から高山へ、さらに信州へ
さて、富山を発ったぶりは10日間ほどかかって高山の肴問屋に届けられます。するとそれまで「越中鰤」という名前は「飛騨鰤」と名前を変え、更に野麦峠を超えて松本へと旅を続けることになります。冬には積雪も多く、苦労があったのだそうです。そんな塩ぶりをいつか自分も食べてみたいと思っていました。私の家では昔から正月には塩鮭で、塩ぶりは食べたことがなかったんです。
富山で塩ぶりと麹ぶりを手に入れる
高山から東京へ戻る途中で、富山市にある江戸時代の北前船で栄えた富山港を訪ねてみました。北前船は北海道と京都をつないだ、日本海側の海路です。その話もまた面白いのですが、今回はぶりがテーマですからまた別の機会に。
北前船の海鮮問屋の建物も残る通りにあった海産物屋に入ってみました。すると冷凍された塩ぶりが売られているではありませんか。夏の時期には手に入らないだろうとあきらめていたのですが、形のいい切り身を買うことができました。
もうひとつ、お店の人が勧めてくれたのが「麹ぶり」。麹漬けにしたぶりです。比較的最近作られるようになったそうで、塩蔵の塩ぶりに比べれば常温での保存時間には限りがあります。冷蔵、冷凍、そして流通の発達で真夏でも楽しめるというわけです。
塩ぶりはしっかりと身がしまって、ぶりらしい青背の魚の美味しさが感じられます。一方の麹ぶりのほうは身が柔らかく、ほんのりとした甘みと脂の旨味が一体となって、贅沢なおいしさに仕上がっていました。
その昔に冬の峠を越えた塩ぶりですが、真夏であっても麹漬けのものまで流通しているのですから、なんとも贅沢でありがたい世の中になったのだなとあらためて思いました。
参考:「鰤のきた道」松本市立博物館編 (オフィスエム)
[All photos by Atsushi Ishiguro]